9. 思い出の体育館裏
3回目のデートのお誘い
肝心のマッチングアプリのほうは、ユウトらしきプロフィールが現れて以降、進展はなかった。膠着する状況に、ナツはマッチングアプリを起動する頻度も減りつつあった。
画面を開くたびに、ユウトらしき男性のプロフィールが目に飛び込んでくる。そのたびに胸が締め付けられるような感覚に襲われ、思わず画面を閉じてしまう。
(もしかしたら、本当にユウトかもしれない…でも、もし違ったら…)
ナツの心の中で葛藤が渦巻いていた。ユウトにカマをかけてみようか、ユウトの過去の怪しい行動を洗い直してみようか、それともマッチングアプリに再度別プロフィールで登録し直してマッチできるか試そうか、と何度も考えた。しかし、実行に移すことはなかった。
それは、ナツの心の中に別の存在が大きく占めるようになっていたからだった。
タカシ。
前回のデートで体の関係を持ちかけられ、自分が戸惑いながらも、その誘いを受け入れてしまったこと。そして、タカシから「付き合おう」と真剣な眼差しで告げられたこと。そのいずれもが頭から離れなかった。
本当なら今すぐにでもタカシとの関係を断つべき。そう頭ではわかっていながら、ナツはタカシから来る3回目のデートのお誘いを断りきれなかった。
「今日の夜7時にいつもの駅待ち合わせにしよう。楽しみにしていて」
どこに行くのか聞かされていないことに、ナツは少し不安を感じつつも、期待に胸を膨らませていた。
車で現れたタカシ
夕暮れ時、いつもの駅で待つナツは、タカシの登場に驚いた。車で現れたのだ。
トヨタ製らしきSUV。車体は磨き上げられ、夕日を受けて艶やかに輝いている。車に疎いナツは車の名前すら知らないものの、その洗練されていてアクティブな動きは、タカシの印象にぴったりだと思った。
「久しぶり、ナツ。今日はとっておきの場所に連れて行くよ」
彼はドアを開けてナツを迎え入れた。ナツは緊張しながら助手席に乗り込む。車内には、タカシのらしき香水の匂いが漂っていた。ほのかに甘い香りに、ナツは思わずドキリとした。
「どこに行くの?」ナツが尋ねると、タカシは微笑んで答えた。
「まだ秘密。でも、きっと喜んでくれると思う」
タカシの言葉に、ナツの心臓が高鳴る。車は静かに夜の街を走り抜けていった。
しばらくすると、懐かしい景色が目に入ってきた。ナツは目を丸くする。
「向かってるのって…私たちの母校?」
タカシはにっこりと笑い、頷いた。
「そう、僕たちの中学校だよ」
15年ぶりの母校
車を学校に面した路肩に停め、車から降りた二人は学校に沿って散歩した。しばらくして学校の裏口の門が見えると、タカシが言った。
「ここから忍び込もう」
「え?ダメでしょ、そんなの…」ナツは躊躇した。
「大丈夫だよ。誰も来ないから」タカシがいたずらっぽい笑みを浮かべる。
ナツは迷いながらも、タカシの後に続いた。タカシは器用に門をよじ登り、上から手を伸ばす。
「ほら、手を取って」
ナツは恐る恐る手を伸ばし、タカシの力強い腕に引っ張られて門を越えた。二人で忍び込む行為に、ナツは少女のような興奮を覚えた。
校舎の影に隠れながら、二人はテニスコートに向かって歩き始めた。月明かりに照らされた懐かしい風景。ナツは胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
「気づいてなかったようだけど、」タカシが静かに語り始めた。
「実はね、ナツは俺の代の男子にすごく人気があったんだよ」
「え?嘘…」ナツは信じられない様子で首を振る。
タカシは優しく微笑んだ。
「本当だよ。整った顔立ちでスタイルも良くって、将来見違えるほど綺麗になりそうって言われてたんだ」
ナツは顔を赤らめた。自分が思っていたのとは全く違う過去の事実に、戸惑いを隠せない。
「そんなわけないよ…ほら田中先輩とか、佐藤先輩とか、きれいな人いっぱいいたし」ナツは小さな声で否定した。
「うーん、その二人は他の部の男子と付き合ってたしな。ナツと同じX年卒の代のなかだと、一番人気はナツだったよ。そうそう、普段のクールな感じと、テニスでミスしたときとかの照れた笑顔とのギャップも評判だった」
タカシの言葉に、ナツの心臓が激しく鼓動を打ち始めた。
「…タカシも…そう思ってたの?」ナツは小さな声で尋ねた。
タカシはナツを見つめた。
「ああ、もちろん。実は…」 しばしの沈黙の後、タカシは微笑んだ。
「俺がナツのことを猛烈に推してたっていうのもある」
「もうっ…」
ナツは照れるあまり、思わずタカシを叩こうとした。笑いながらタカシは叩かれるに任せたあと、ナツの手を掴んだ。
そのまま手を繋ぐと、タカシは体育館裏の倉庫の方を指さした。
「あそこに行ってみない?」
思い出の体育館裏
ナツは頷き、二人は歩みを進め、体育館倉庫の裏に到着した。タカシは体育館倉庫の横にある、誰からも見えない場所へとナツを導いた。二人は腰を下ろし、夜空を見上げた。
「覚えてる?毎日の部活のあと、テニスボールを倉庫に片付けに行く当番があったの」
ナツは頷いた。「うん、覚えてる」
覚えているどころではない。二人の所属したテニス部では、毎日の部活のあと、学年で男女それぞれ1名ずつ、合計6名がテニスボールを倉庫に片付ける係が当番制で回ってきた。重いテニスボールのカゴをうら寂しい倉庫に運ぶのを、同級生の女子の誰もが嫌がったが、ナツだけは密かにその係を楽しみに待ちわびていた。
タカシへの恋に落ちたのもその当番のときだった。その前から憧れの先輩だったタカシが恋の対象になったのは、テニスボールを運ぶナツをさりげなくサポートしてくれる優しさに触れ、偶然にも手が触れ合った瞬間だった。その後も、タカシと一緒に当番になれた日は飛び上がるほど嬉しかった。始めて言葉を交わせたのもその当番のときだった。
「実はね、僕はいつもナツと一緒になりたいと願ってたんだ。ていうか…友達に頼んでよく当番変わってもらってた」タカシの告白に、ナツは息を呑んだ。
タカシと当番になれることが多いことに、もしや運命かも…!?と心浮き立っては、そのすぐ後に釣り合うはずがないと心沈んでいたその頃の自分を思い出した。そんな理由からだったとは…。ナツの頬が熱くなった。
「私も…タカシと一緒になったときのこと、よく覚えてる」ナツは小声で答えた。しばし沈黙の後、言わずにはいられなかった。
「…タカシを好きだって思ったのも片付け当番のときだったし、…始めて言葉を交わせたのも当番のときだった…」
互いが互いを思い合っていた事実が明らかになり、ナツの心はときめきで満ちあふれた。それはタカシも同じ思いだったようで、ナツのことを見つめ返す瞳が燃えるように熱い。
「ナツ…」タカシの声が低く響いた。
ナツが顔を向けると、タカシの顔が近づいてきた。唇が触れ合う直前、ナツは目を閉じた。
柔らかな唇の感触。タカシのキスは優しく、でいて情熱的だった。
キスが終わると、タカシはナツを抱きしめた。「あの頃もずっと、こうしたいって思ってたんだ…」
ナツは言葉を失い、ただタカシの胸に顔をうずめた。タカシがナツを優しく抱きしめた。ナツは驚きつつも、その温もりに身を委ねる。
「ナツ…」タカシの囁きが耳元で響く。
そしてまた、唇が重なった。優しく、しかし情熱的なキスに、ナツの体が熱くなった。夜の闇に包まれ、誰からも見えないその場所で、二人の欲望の火が燃え上がっていく。